私の「怒り」とは?

※「在特会」のレポートや動画は、暴力的で差別的な行為・発言が含まれていて、やはり気分が悪くなりますので、お取り扱いには注意してください。そして、現段階で、「在特会」サイドのメディアを利用しなければならないことも、また悔しいのですが、お断りしておきます。 


2009年12月4日(金)13:00に、京都朝鮮第一初級学校に「在特会在日特権を許さない市民の会)」が押し寄せ、1時間の「抗議活動」をしていった。


 これに先立って、彼らは、京都朝鮮第一初級学校の隣の公園を、学校が「不法占拠」しているとして、視察にいった模様とどこかの役所に問い合わせにいった模様を公開している。以下、その動画。
京都朝鮮学校が児童公園を不法占拠【主権関西/在特会関西】


 その後、朝鮮総聯京都本部前での抗議活動において、「12月初旬」に朝鮮学校に抗議しにいくことが「忠告」された。以下、その動画。
(5/16)H21.11.21【関西支部】こちら京都朝鮮総連本部前!

 動画の限りでは、彼らはいつ来るのか、何を起こすか分からない、学校側も不安を抱えたまま日常を過ごすしかなかった。
 結局、私も何もできないもどかしさを抱えながら、とうとうその日がやってきてしまった。


 ○学校側が撮影した動画

 ○「在特会」のレポート

 ○youtubeで検索すると、一部始終が更新されていた。
(日記初稿の際は、全てのURLをアップしていたのですが、あまりにも学校関係者の肖像権が侵害されているものなので、youtubeにおける「在特会・関西支部」のページに飛ぶようにしました。)
12月4日京都児童公園を無断で校庭として使う朝鮮学校から奪還 1〜6


(この日の状況説明が不足していましたので、補足します。)
 京都朝鮮第一初級学校は、そもそもグランドがありません。それでも、子どもたちの保健体育を保障することは絶対に必要であり、だからこそ勧進橋公園において、学校の僅かな資材を持ち寄り確保してきたのです。京都市もそれを非公式にでも認めてきたはずです。因みに、京都市の高速道路の建設工事によって、それさえも奪われようとしています。

 当日、学校では、京都と滋賀全ての初級学校の生徒が集まって、交流会が持たれていたようです。そんな楽しいひと時の最中の出来事でした。生徒の中には、怖くて泣き出す子たちもいたそうです。

 私がこれを知ったのは、二日後の12月6日(日)。結局何も力添えできず、怒り、憤り、悔しさ、恥ずかしさ、いろんな感情がこみ上げてくる。絶対にこんなことを許してはならない。

 ただ、「在特会」を例外や特殊なものとして扱ったり、未熟さを嘲笑うことは、日本社会が内在している暴力や、日本人の責任を曖昧にしてしまう。そういう意味で、彼らは私の「鏡」だと思うのだ。

 学校関係者の方の言葉=訴えが、ずっと胸に突き刺さっている。

「子どもたちの心に影が出来、教育上大きなマイナスになるであろうこの件はだれが責任をとってくれるのですか?
 保護者たちの不安はどう取り除いたらいいのですか?」


 ほんとに酷い。子どもたちの心理的なショックや保護者の不安は、計り知れない。今後、二度と「在特会」が来ないようにすること、これに刺激された市が変な方向に動かないかということも憂慮されるし、そしてこれらの不安をどのように取り除くかという問題が残る。
 どうしたらよいのか今は頭真っ白だが、何らかのアクションは起こさなければと思っている。ほんとに自分の無力さを痛感しつつ、やっぱり具体的に何ができるかを考えたいと思う。独りでもやる。


 
 ちょっと、話はズレるけど、今回改めて思ったこと。「在特会」は、かなり象徴的だと思うが、それに対する私つまるところ日本人の「怒り」というものは、一体何なのかということ。

 何に対する「怒り」で、誰のための「怒り」で、何のための「怒り」で、何を守るための「怒り」なのか。

 私は今まで何に対して「怒って」いたのだろうか。

 もちろん、当事者を代弁できるはずもない。確かに、日本人として恥ずかしいからというのはあるが、私は彼らとは違うってことを証明したいという欲望だったのではないか。真意は、当事者にそれを示すための「怒り」ではなかったのか。

 それは、ほんとに傲慢で、エゴで、マッチョな姿勢だった。先述したように、彼らと私は同類。「日本人として恥ずかしいから」というのも、逆を返せば、ナショナリズム的だしね。

 では、私の「怒り」はどこに向かえばいいのか?その「怒り」は、どうあるべきなのか?「当事者」でない私は、この問題にどう携わるべきなのか?

 明確な応えはないけれども、今までの固定的な主体性や立場性だけでは、不十分だということは確かである。もう一度、問い返す必要があるのではないだろうか*1





追伸:
 最初何もできていないし、警察を誉めるわけでないけど、動画④の途中〜⑥に出てくる警官にちょっと感心。「朝鮮学校に言うてもしゃーないやろ」などと、説得をしている。弁護士が駆けつけたおかげもあって、その説得の間、マイクパフォーマンスが少し鎮静化されている。youtube等では、この警官に対する批判が殺到していて、ちょっと滑稽。今までの「在特会」のデモでは、見られないレアな光景だった。



追加(2009.12.9):
※知人からのメールからの転載です。第一初級の保護者の方の文章です。

皆様

私は朝鮮第一初級学校に二人の子どもを通わせている保護者の金と申します。

ご存知の方もいらっしゃると思いますが先日4日に名前を言うのも忌まわしいようなレイシスト(人種差別)団体が京都朝鮮第一初級学校のすぐ前で騒乱を起こしました。
http://corea-k.net/date/000.wmv

今まで生きてきてこんな腹立たしく悔しい思いをしたことがありません。
学校の前で子どもたちに聞こえるように“スパイの子どもたち!”“朝鮮学校を日本からたたきだせ!”などと人として信じられない暴言を拡声器の爆音をもって騒ぎ立てました。
子どもたちはおびえて、中には涙を流すこどもたちもいたそうです。

私が悔しい、腹立たしいと思ったのは、何もその団体に感じたことではありません。
朝鮮語のことわざに“糞を避けるのは怖いからで無く汚いからだ”という言葉があります。
私が本当に許せないのはこのような事態が許されている“この社会の規律と良識”に感じています。

当日警察も子どもたちがおびえてるにもかかわらず“自分たちは間に入っている立場”とし制御しようともしない。スピーカを校門のまん前で校舎に向けて騒いでるにもかかわらず禁止させない。
これが言論の自由ですか?法や警察はこどもを守ってくれないというのがむなしくてたまりませんでした。

自由使用の公園なのにも関わらず“不法占拠”とののしり、地域の方々も使っているゴールポストを動かしたり、利用する子どもの安全のために設置されたスピーカーの線を切り、朝礼台と一緒に校門前に投げつける暴挙。
器物破損ではないのですか?強制執行は一般市民に権限があるのですか?
子どもたちがおびえ、泣いているのに脅迫罪ではないのですか?
そこにいる個人や団体を誹謗中傷し侮辱罪ではないのですか?

そこに駆けつけた私たちは声がかれるまで警察に訴えたのに取り合ってくれませんでした。
私は学校に駆けつける前に、某大学で人権教育の招かれ、“人権とこどもの学ぶ権利”を物知り顔で語っていました。
このときほど“人権と子どもの学ぶ権利”が虚しく聞こえたときはありません。

私はこの問題が一部のレイシスト集団の問題ではなく、それを許容する日本社会の“良識”を問いたいです。

たしかにこのような集団は日本人の一部かもしれません。
“日本人は悪い人ばかりではありません。信じてください”とおっしゃりたい方もいるでしょう。
そういう意味では日本の方々も被害者かもしれませんが、今回の問題の本質ではありません。
明確にこのような事態が起こったことは、これが許されたことになると思います。
いまこそ“日本社会の良識”にとうべきだと思っています。

いままで本当に悔しい思いをいっぱいしてきましたが、もうたくさんです。
今後このような事態が起こったとき、また私たち朝鮮人は門扉の前で歯を食いしばり、血の涙をのみながら我慢に我慢を続けないといけないのでしょうか?
正直に今回子どもたちに“守ってやれなくて申し訳ない”との考えが頭を離れず夜も悔しくて眠れませんでした。

無くなった祖父母や一世たちが空の上からこの事態を見ているならば、どんな思いをしてるでしょうか?
自分たちの曾孫までもこんな仕打ちをされているのかと嘆き苦しんでいるでしょう。

長々と書きたて、最後まで読んでいただきありがとうございます。
もうこのような事態が起こらぬよう皆さんどうかこの社会を良識とあるべき姿を考えてください。。。

*1:追記:
一番最初の「在特会」の学校調査報告動画が送られてきた日の夜、いろんな複雑な感情に震えて涙が止まらなかった。第一初級学校は、前の大学の近所だったこともあって、とても思い入れがあったし、よくしてもらったから。さらに、その前に、証言集会に「在特会」から「妨害予告」が出ていたこともあって、私の精神状態は不安定極まりないものだった。「怒り」のあり方と同様に、この「涙」や「悲しみ」も、何なのかということは突き詰めないといけないと思う。ただ、証言集会の「妨害」では、「セカンドレイプ」が起こるかもしれないという恐怖があったから、よく説明できないけど、今回の件も私にとったら重なってしまった。とりあえず、冷静ではおられなかった。