立場性と権威について―金明秀さんのコメントへの応答

先日、大学教員の要望書について転載したエントリーに対して、金明秀さんからコメントをいただきました。コメント、ありがとうございます。

(追記更新)「高校無償化」措置を朝鮮学校に適用することを求める大学教員の要請書
http://d.hatena.ne.jp/kiimiki/20100314/1268549643

いつものように応答が遅くなってしまいましたが、もう一度この要望書について考え、自分なりに整理しました。長くなってしまったので、新しいエントリーを立ち上げましたことをご了承ください。

大学教員の要望書について、私は、大学教員という枠だけで賛同を募ることに対して指摘しました。同時に、自分の中に権威主義が植えつけられていることを述べました。

それに対して、金明秀さんからのコメントは、以下の通りです。

追記の内容にはちょっと違和感があります。

第一に、一つの運動メディアに参加できないことで疎外感を抱くのはわかりますが、運動参加者の気持ちは(それが権威主義であれ疎外感であれ)当面、考慮すべき事柄ではないと思います。大事なことは、運動(この場合は署名)に社会的な効力を持たせることであり、ひいては朝鮮学校を無償化の対象とすることです。

第二に、こういう短期的な課題の運動では、手段が妥当かどうかよりも期限内に成果を期待できるかどうかのほうが重要でしょう。成果に結びつけるために、できることはなんでもやるべきです。もし大学教員の社会的な威信が利用できるのなら、いくらだって利用すればいいのです。

第三に、短期的に資源を有効に集約方向として「大学教員」というカテゴリーに注目するのは、むしろ当然といってもいいと思いますよ。わずか数日の猶予で資源を集中しようとするなら、大学という組織があって(つまりメンバーシップが明確で)、みんな電子メールを利用している大学教員は情報伝達にうってつけです。それに、一般市民を対象とした署名だと1万人だってたいした人数ではありませんが、大学教員だと千人でそれなりの重みを持ちえます。

第四に、逆に言うと、一般市民を対象とした署名活動は、この短期間では事実上、無理です。3月末の政治状況次第では、4月はじめに一般向けの署名活動を組織する案も浮上してくるでしょうけど、今のところは運動資源の無駄遣いにしかならないと思います。

以上。本末転倒ではないかな、という指摘でした。


金明秀さんのコメントより
http://d.hatena.ne.jp/kiimiki/20100314#c1268670755

私が最初にこの要望書の知らせを受け取ったとき、要望書の趣旨として、すでに朝鮮学校出身の学生が多く在籍している大学の「大学教員という高等教育に携わる者の立場において」、その責任を果たそうとするものであると認識しました。

過去のエントリーで少し触れましたが、大学受験資格問題における運動で、まだまだ課題は残っていますが、朝鮮学校出身者の日本の大学に受験する権利は獲得されてきましたし、その際に朝鮮高級学校の教育課程が日本の高校に類するものだとしてすでに認めています。それゆえ、今回の朝鮮学校外しは、そのような運動の蓄積を否定するばかりか、教育の在り方をも否定するものであります。

大学受験資格問題において、2003年に「民族学校出身者の受験資格を求める国立大学教職員の声明」というものが出されています。これは、文部科学省が、国立大学でアジア系の外国人学校だけを認めないという方針が出されたときの声明です。そこには、

私たちは国立大学教職員として、自分たちがこの問題に責任ある立場に置かれていると考えます。そうであるからこそ、文部科学省の政治的判断に対して、大きな危惧と疑念を抱かざるをえません。/私たちは民族差別の「加担者」になることを拒否します。

民族学校出身者の受験資格を求める国立大学教職員の声明」より
http://www.jca.apc.org/~komagome/seimei_index.html

、とあります。
このときも1000名以上の教職員とその他の関係者が賛同され、とても大きな成果を生む結果となりました。今回、短期間で賛同がこれほど集まったのも、その際のネットワークが、連続していると思われます。今回もこうした不当な措置を容認できないとして立ち上がったのだと察します。

今回は、「大学教員」となっていますが、2003年の大学受験資格の際には、「教職員」となっていましたので、上記のようなメッセージや立場というものが分かりやすかったという印象を持ちます。「職員」も受験者の入学審査という業務を担いますし、その意味で「当事者」だと思います。しかし、「教員」と立場が異なるゆえに声を上げにくい状況があるので、なかなか連帯は難しいかもしれませんが、このような可能性もあり得たのではないかとは思います。

そうした趣旨や背景を踏まえて、私個人としては今回の要望書の権威性というものとまずは切り離して、理解を示す方向として考えます。しかし、「職員」との連携という点も含めて「大学教員」という枠のみであることで、立場性が分かりにくく、権威と結び付けて考えてしまったことは否めません。実際に、それだけでマスコミは取り上げますし、一般民衆は期待を寄せます。やはりその「威信」は放つでしょう。その立場にたつものは、そこに自覚的になってほしいし、正しく使い振舞ってほしいし、何かを考えるときにはできるならその壇上からおりてきて一緒にやりたいと願うばかりです。

一方でこのようにも思います。権威の問題としては、どちらかというと私自身の問題だろうと。何かの地位についたから権威があるとかではなく、その地位や人に権威を与えているのは周りの人であると思います。権威を欲しがる人は、よりたくさんの人が権威を与えている地位へのぼりたいと思うでしょう。もし、その権威を許さないと思うのなら、私自身がそれに対して権威を与えないという姿勢であるべきだというふうに思います。公権力に対してもそうです。権威かどうかは、受け止める側の問題ともいえるでしょう。

今まさに目の前の問題が差し迫っている中で、「利用できるものは利用する」という発想に至ることはよくあることですし当然のことだと思います。私は、それを否定しませんし、私もついついそう考えてしまいます。しかし、それも先述したように、結局権威を与えてしまうことにはなるのだろうなと思っています。実際、とても複雑で揺れる思いでいます。

私自身は、ただの学生で「権威」も何も持っていませんが、自分に置き換えたときに思うことがあります。在日朝鮮人学生といろいろな取り組みしていく中で、日本人―朝鮮人(と二項対立的に語ることはあまりしたくないし、実態として難しいと思いますが、いったんその立場を固定させていただきます)という社会的に非対称な関係において、在日朝鮮人が日本人に対して何も言えないという力関係があると思います。私のいたコミュニティは、わりと日本人に対し厳しく問うというやり取りをしてきたし、私もその中で鍛えられてきました。しかし、こういった問題に携わる日本人学生が本当に少ないので、とても重宝されてしまいますし、情勢が厳しくなるとよりその傾向は強くなります。確かに、日本人学生の存在は、身近な学生や世論に訴えるときに、大学教員とまではいかないですが多少の影響力を持つことになります。そして日本人学生が行動を起こせば起こすほど、大事な存在になります。在日朝鮮人の声を受け止めようとしない社会状況・構造が背景にあるわけですが。

そういう中で、私は、自分の存在を利用できるなら利用するだけしてほしいと思っていました。実際に利用しようとしていたかどうか分かりません。たとえそうだとしても、ほとんど効果もないし、たいしたことはできませんでしたが。しかし、そのような期待に必死に応えようとしていく姿によって、自分が「権力」を持ってしまっているのではないかと不安になりました。この人は行動する数少ない日本人学生だからとして、私が、何かおかしなことを言っていても、何も言えないのではないか。私が何か言ったことで、圧力になっていないか。そして、感謝されてしまうという捻じれた関係になってしまうのです。これは、関係性の問題でもあります。利用―被利用という関係性は、過去からずっと 繰り返されてきました。支援―被支援という関係でも同様のことが言えると思います。

だからということでもないですが、どのような立場の人がアクションを起こしても、それは対等に「重み」があるのだと信じるべきではないでしょうか。

緊迫した状況の中で、いろんな人を配慮することは難しいと思いますが、運動にもさまざまな人が集まってきます。目的のために手段や過程を考えている余裕はないかもしれませんが、そのさまざまな関係や空間を切り捨ててきたから、運動が後退してきたとも思うのです。何かを達成するために、誰かを切り捨ててやる運動が、社会をよくするとは思いません。世界で一番その問題だけが重要なのではないのですから。