映画『プレシャス』

映画『プレシャス』

2009年、アメリ
◆スタッフ◆
監督/製作:リー・ダニエルズ/脚本:ジェフリー・フレッチャー/原作:サファイア
◆キャスト◆
プレシャス: ガボレイ・シディベ/メアリー:モニーク/ミズ・レイン:ポーラ・パットン/ミセス・ワイス:マライア・キャリー/コーンロウズ:シェリー・シェパード/ナース・ジョン:レニー・クラヴィッツ

公式HP http://www.precious-movie.net/


映画『プレシャス』を観てきた。日本での公開が決まる前から、映画に詳しい友人が薦めていたので、ずっと楽しみにしていた。アメリカでは、インデペンデト系の映画として、小規模で公開されていたが、口コミで評判となって全米の映画館で公開されるようになった。サンダンス映画祭でグランプリを受賞したほか、マライア・キャリーレニー・クラヴィッツら、有名スターが脇をかためていることでも話題を呼んでいる。また、アカデミー賞6部門にノミネートされ、助演女優賞脚本賞を受賞した。

予告を観たときも、すでに鑑賞した方から「キツいよ」と念押されたときも、覚悟しておかないとと心に決めていたものの、鑑賞後はやはりぐったりだった。こんなにも引きずるとは思わなかったし、こんなにもまとめるのに時間がかかるとは思わなかった。それも当然のはずだ。このブログを開設した当初、カテゴリーに「サバイバー」と分類しておきながら、書く準備なんて全くできていなかったのだから。しかし今回は、自分の感じたこととか、この映画の意味とか、しっかり整理して書き留めておきたいと思った。


(※ネタバレも含むので、これから鑑賞予定の方は、ご注意ください。また、性暴力被害に関する記述が含まれるので、そうした記述を読んだときに、気分が悪くなったり感情をコントロールできなくなる方は、ご注意ください。)


※あらすじ

1987年、ニューヨーク・ハーレム。16歳の少女プレシャス(ガボレイ・シディベ)は、実父と義理の父のレイプによって2度も妊娠をさせられ、母親メアリー(モニーク)からは精神的にも肉体的にも虐待を受けていた。12歳のときに産んだ最初の子どもは、近所に住む祖母に預けられている。「プレシャス=貴い」という名前とは裏腹に、悲惨な家庭環境に生きていた。

二度目の妊娠が、学校にバレてしまい、強制的に退学させられてしまうところから、物語は始まる。学校長は、プレシャスに、代替学校(オルターナティブスクール)への通学をすすめた。しかし、母親は、教育なんかいらない、偉くなった気でいるのか、と娘の学びを奪おうとする。

プレシャスは、日常の読み書きがほとんどできない。学校には行きたいが、父親が行方をくらましてから、自暴自棄で怠惰な母親の代わりに、家事全般を強いられていた。しかし、彼女は、オシャレをして恋をして、歌手や女優になることを夢見る少女だ。妄想の中で歌ったり踊ったりしているときが、過酷な現実を少しでも忘れられるひと時であった。

ある日、学校長が話していた住所の通り、代替学校に訪ねてみた。そこでは、移民、ドラッグ、貧困など同じような境遇にある少女たちが一緒に机を並べている。とくに女性教師レイン(ポーラ・パットン)との出会いは、プレシャスの人生にとって大きな転機となった。読み書きを学び、自らの人生について書くことによって、自己に目覚めていく。レイン先生の存在は、「希望」だった。自身の人生を諦めずに、自らの道を自ら決めて進もうと逞しく成長していく姿が、多くの聴衆の感動を呼ぶことになる。


以下の文章が、この映画の背景など詳細に解説してあって分かりやすく、参考にさせていただいた。

レーガン時代、黒人/女性/同性愛者であることの痛みと覚醒――サファイアの『プッシュ』とリー・ダニエルズ監督の『プレシャス』をめぐって」
http://c-cross.cside2.com/html/a00re002.htm


混乱するくらい、さまざまな問題が詰まっている。鑑賞中、暴力のシーンは、身体が強張ってしまって、とにかく緊張していた。父から娘、母から娘への虐待、歪みきってしまった暴力の構図がある。母親が登場するだけで、何が起こるのだろうと、不安な気持ちが押し寄せてくる。母親が去れば、ホッとして肩の力が緩まるのが分かった。

モンスターぷりを発揮する母親を、多くの観衆が非難の眼差しを向けていたに違いない。それだけ母親役のモニークの演技は迫真であった。しかし、私には、彼女を憎み切れない、薄々気づいていることがあった。映画の終盤、生活面で支援してくれていた、ソーシャルワーカーマライア・キャリー)との三者面談のシーンで、母親はすべてを告白した。父親のプレシャスへの性的虐待は、3歳の頃からだった。宝物(プレシャス)である赤ん坊を、夫婦の間に寝かせていたが、二人がセックスする際に、夫は赤ん坊を触り始めた。「何をするの?」と何度も何度も訴えたが、彼に愛してもらうために、それらを許してしまったというのだ。おっぱいも父親のために減らしたくなかった。私が悪いの?と迫りくる悲痛な叫びが、私は最も耐えられなかった。娘への肉体的・身体的な虐待は、許さざる問題であるが、彼女も被害者であることを忘れてはならない。この夫婦が、DV関係であったことを改めて確認しなければならない。

1980年代のアメリカは、経済格差が拡大していく最中にあった。とくに黒人コミュニティに与えたショックは大きかったという。貧困の中で、疎外される男性たちは、家庭内にそのはけ口を求める。DVや性的虐待などの暴力が蔓延っていた。しかし、そうしたコミュニティ内部の暴力に言及することは、タブー視されていた。この映画の原作『Push』の暴力の描写についても、評価は分かれていたらしい。

しかし、原作者のサファイア自身も家庭内暴力のある環境に育ってきたし、今回の映画監督のリー・ダニエルスが原作を読んだ際に自分の物語だと共感し、母親役のモニークが兄からの性的虐待を告白しているように、この映画を創造するものたちが暴力を見逃さなかった。モニークは、雑誌のインタビューで、幼いころに兄から性的虐待を受けていたが、両親に訴えても何もしてくれなかったことを明かしている*1。今回の役どころは、辛かったに違いない。映画に関するインタビューでは、どうしても耐えがたいシーンもあったと応えている。早く自分に戻らなければ怖かった、あまりにも残酷で、だけど同時になぜそんなふうになったの?と原因を聞いてあげたくなる、と*2


原作者のサファイアは、1950年、カリフォルニア生まれ。米国内軍基地を転々として育った。軍人の父親は、家庭内では暴君であったため、母親は幼いころに出ていってしまった。1977年に、スラムポエムをするためにニューヨークに移住。“United Lesbians of Color for Change Inc”というゲイ組織のメンバーでもあった。1983年から10年間、ハーレムで読み書きの教師としての経歴がある。1996年に出版された『Push』は、教師をしていた頃のある教え子をモデルにしたとされている。

劇中、プレシャスは、母親の虐待から着の身着のまま逃れて、出産した赤ん坊を抱え、一時的に女性教師レインの家に身を寄せることになる。そこで、レイン先生が、同性パートナーと同居していることを知る。それまで同性愛者を嫌悪の対象としてみていたプレシャスは、驚いてしまう。「同性愛の人間はあたしをレイプしないし、勉強の邪魔もしない」と、彼女にとっての他者を受け入れていこうとするのである。このレイン先生こそが、原作者サファイアの目線ではないだろうか。

原作『Push』では、代替学校でアリス・ウォーカーの『カラーパープル』(1982年)を読ませる場面があるようだ。作家アリス・ウォーカーは、人種差別と性差別を訴えるブラック・フェミニストの先駆的存在で、サファイアと同時代の人物である。自身が女性であることレズビアンであることで、社会一般だけにとどまらずコミュニティ内部での疎外も感じてきたのだろう。だからこそ単純な二項対立で社会構造を認識するのではなく、人種やジェンダーセクシュアリティなど重層的な差別構造を捉えようとしていた。

ちなみに、映画『プレシャス』の監督リー・ダニエルス自身は、ゲイであることをオープンにしており、ゲイであることを理由に父親からの虐待を受けたこともあるという。もちろん暴力の対象は、女性/男性にかかわらず問題にしなければならないし、コミュニティ内部のホモフォビアを訴えるものでもあるということだ。こうして原作者や監督をはじめ、第二波のフェミニズムを超えて、映画が創られてきたのだと思うと、胸が熱くなる。


ところで、たまたま音楽評論家の藤田正さんの映画評を読んだ*3。そこでは、文字を覚えていくことを、「自分との出会いであり、光ある道への選択であった」、「読み書き、あるいは「識字」がいかに大切であるかをぼくらに伝える」と言及してあった。この点に関しては、少し首を傾げてしまう。この映画で、ただひとつだけ不満に思ったところであるからだ。

この代替学校での学びは、まさに識字教育である。映画の中では、とにかく毎日何かを書かせていた。プレシャスの人生や子どものことなど。原作では、先述したように、『カラーパープル』を読ませているのだが、これは私の知っている日本の夜間中学や識字教室でも同様のことがいえる。共通していえるのが、生徒たちの「意識化」である。これは、ラテン・アメリカの教育者パウロフレイレの教育実践に基づいている概念であるが、識字を獲得する過程で、被抑圧者としての「意識化」をはかり、社会変革の主体として立ち上げていこうとした画期的な実践であった*4。そういう意味では、識字は政治を変えていくための「手段」と言えるかもしれない。しかし、あたかも識字を獲得しなければ「意識化」できないような、普遍的技術としての識字観を批判的に追究しなければ、識字が社会的に適応するための「同化」の装置になってしまうことを追い隠してしまうだろう。識字という制度が序列化を生み出すという暴力性を認識しなければならない。

識字や教育の暴力は、まさに母親メアリーの態度に表れている。彼女は、学校や教師を疎ましく思い、娘を教育から遠ざけようとする。学校に行って「偉くなった気でいるのか」、「そうやって私を見下そうとするのか」と。彼女は、教育を全く信じていない。それどころか、教育によって抑圧された経験があるのだろう。教育によって抑圧され、教育によって救われるという、母と娘の一見非対称な構図が、いかに排除と包摂という暴力を孕んでいるかを示している。

さきほど、レイン先生が原作者サファイアだと記した。実際、サファイアは、ハーレムで読み書きを教えているときに出会った生徒をモデルに、この話のアイデアを発想したと話している。原作者サファイアのことを何も知らないで映画を観たが、直感的にこの物語が教師目線で描かれていることを感じた。劇中、レイン先生はとても魅力的で、かっこいい。ナルシストだと言いたいのではなく、レイン先生はあまりにも美化されているということだ。

プレシャスにとって、代替学校、レイン先生、識字、これらが僅かな「希望」をもたらしたと描かれる。たしかにそれらに出会わなければ、彼女の成長はなかったかもしれない。私は、そうした女性たちのエンパワーメントを認めつつ、「教育神話」ないし「識字神話」についてはどうしても慎重になってしまう。識字が政治的中立的な道具ではありえないし、教える―教えられる、識字―非識字というだけで、すでに力関係があるからだ。もしレイン目線でプレシャスをみつめているのならば、教師の傲慢さが見え隠れする。私の捻くれた根性をお許しいただきたい。

「識字神話」については、id:hituzinosanpoさん*5などが主張してきたことでもあり、識字教育ではなく、識字優位な社会構造を変えていく行動が、求められていると思う。ただ、私は、識字についてこれだけ偉そうなことを言いつつ、やはり識字から自由にはなれていない。このブログもルビさえふれていない。たくさんの矛盾を自覚しつつ、思考停止だけはしたくないし、これからも模索していきたいと思う。


映画の話に戻る。彼女の成長や前向きさが、レイン先生や識字を通して語られることの違和感だけでなく、私が映画のメッセージを素直に受取れなかった理由は、どうしてもこれからどれだけの苦難が待ちわびているのだろうと悲観的になってしまったからだ。「気づく」ことが、自身をエンパワーメントさせることの一方で、常に闘わねばならない状況をつくる。「支えてくれる人」たちが、「味方」だとは限らない。これから起こりうる「二次被害セカンドレイプ」が、さらに自尊心を傷つけられるかもしれない。ほんとに暗い性格だと思う。もう少し「勇気」とやらを素直にもらいたかった。



※追記
映画『プレシャス』の感想について、日々変わっていくので、はてなハイクで、感じたことを書き留めていこうと思います。良かったらこちらも併せてお読みください。
http://h.hatena.ne.jp/keyword/%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%80%8E%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%80%8F%E3%81%AE%E6%84%9F%E6%83%B3%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6

*1:http://www.essence.com/entertainment/hot_topics/precious_star_monique_talks_abuse_in_ess.php

*2:http://ch.yahoo.co.jp/phantom/index.php?itemid=189

*3:藤田正「惨めで屈辱的な生活の先―アメリカ映画『プレシャス』」『部落解放』5月号、2010年

*4:パウロフレイレ(小沢有作ほか訳)『被抑圧者の教育学』亜紀書房、1979年

*5:あべ・やすし「均質な文字社会という神話―識字率から読書権へ―」『社会言語学』、2006年9月