再び、教師の権力性

今日は、夜間中学の全国大会の2日目(1日目の模様はこちら

 徒に夜更かしをしてしまった上に、朝から母親に愚痴を聞いてもらっていたので、大会2日目の最初のプログラムには参加できなかった。

 矢野陽子さんの一人芝居『ワルルル』から参加(矢野陽子さんの公式HPを参照)。夜間中学の生徒さんたちで客席が溢れかえっていた。お芝居の内容は、阪神大震災を経験した在日1世のハルモニの語りに基づいている。矢野さんの訛りやしぐさ、踊り方は、ハルモニの生き写しかのようだった。観客も一緒に歌ったり、笑ったり、空気が一体になって、素晴らしいお芝居だった。

 午後の教科別分科会。私は、日本語(識字)の分科会へ。昨日に引き続き、読み書きだけでない識字教育、というものが意識されている。ある夜間中学の報告では、作文にアレルギーを感じている生徒、あるいは自分の生活史を綴ることに抵抗がある生徒が多いことから、質問形式にして、その回答を繋げて1つの文章にしているという。簡単な平仮名を漢字に直したり、単語や接続詞を付け加えたり、文章を切ったり並び替えたりして、最終的に1つにまとめるのは、教師だ。生徒は、出来上がった文章をみて、こんなにきっちりした文章になって嬉しいと言ってくれるとのこと。しかし、「単に読み書きだけでなく、これまで抑圧されてきたものをどう表現するのか、それを教師が引き出していかなければならない」と主張する教師が、結局、生徒からのその力を奪ってはいないか…。私なら、その文章は、既に自分から切り離されてしまって、教師の手に渡ってしまったと考えるだろう。そこには、抵抗はないかもしれないが、客観視してしまう自分がいるだろうと思う。

 一方で、抑圧からの解放は、「教会など宗教団体でやればいいことだ」などと主張する教師が出てくる…。

 そもそも非識字者が、文字社会に合わせていかなかればならないという思考から見直していくべきところだが、まだまだそんな議論もできない現状がある…。ああ、どうなる夜間中学…。


 あ、あと、今回の大会で、初めて文部科学省の後援がおりたらしい。夜間中学側から特別な働きかけはしなかったらしいが、向こうから大会当日に合わせて後援したそうだ。民主党政権効果すごいなー。かえって怖いんですけど…。

教師の権力性

2009-12-04尼崎夜中学校見学

 今日は、夜間中学の全国大会の1日目。

 これは、年に1度ある夜間中学の研究大会で、全国の夜間中学、自主夜間中学、識字教室の教師や生徒が集う。今年で55回目の歴史ある大会だ。

 私が、夜間中学の研究をはじめて、この大会が4回あった。もう4年も経ったんだ…早いなあ…、と黄昏れてみたり…。参加したのは、今回が2回目。しかも、神戸であったので、ゼミもお休みして参加。

 神戸で大変お世話になっている先生が、この大会にめちゃくちゃ尽力されていて、神戸の夜間中学60年の歴史のパネルなんかは、私もお手伝いさせてもらい、というかその周辺の人総動員てな感じで作成した。その先生が、数年かけて収集された資料は、かなり貴重なものである。今回だけの展示では、もったいないなーと思う。

 生活体験発表では、神戸の在日2世の男性が原稿見ずに話されていた。私もよく知っている方だったが、普段は無口なので、とても感情豊かで流暢な語り口には、とても胸が打たれた。「ハルモニが頑張ってるんやったら、わしも頑張らな」と、勉強だけでなく、みんなが気づかない掃除なんかもコツコツされているのだそうだ。

 まあ、大会の雰囲気は、相変わらずお堅い感じで苦手だが、午後からの分科会になると少し和んだ感じに。私は「在日朝鮮人教育」に参加した。東京と関西の対立(?)になりやすい分科会である。東京の夜間中学の在日朝鮮人生徒が何故減っているのか、具体的な取り組みはどうなっているのか、本名で通っているのか(最近はないかな)など。同じこと繰り返していても仕方ないと思いつつ、実際に参加すると、んー確かに…と思わされる…。

 大阪の教師の発表は、興味深かった。大阪は、在日朝鮮人教育運動の基盤があるから、比べられないが。大阪のある夜間中学では、カリキュラムや要綱も独自のものがある。単に日本語の読み書きだけではない教育を、常々模索しようとしているようだ。その一つの実践として、綴り方教育からヒントを得て、生徒自ら語りかけていくような作文を書かせている。そういう実践は、どこでもやっていると思うが、ここでは教師も自ら作文を書いているという事実は、かなり重要なポイントだと思う。分科会中は、取り立てて評価はされなかったが。

既に識字者であり、しかも教師という立場の者が、「作文を書け」と言う抑圧性は、意外に振り返られない。「生徒が自らの歴史を語れるように」と、一見良心的にみえるが、生徒たちは何も語れないのだ、何も分からないのだ、とその主体を矮小化した上で、あるべき生徒像を設定し誘導しいていくという歪な関係がそこにある気がする。もちろん、この実践でどの程度意識されているかは分からないが、「じゃあおまえはどうなんだ?」という声に応える形で、教師も作文を書くという態度は、そのような権力関係を少しでも乗り越えようという試みではなかったのか。そこまでは報告されていないけど…深読みかしら…。

 実に、持ってしまった教師という権力性を、いかに意識して、いかに乗り越え、いかに棄てれるのか、これは最近の私の大きな課題である。もちろん、教師という一要素だけではない。そこに、日本人や男性の諸要素も入ってくる。難しいが、自分も現場で体現しつつ、いろんな事例をみてみようと思う。


 最後は、学校見学会。私は、尼崎の夜間中学へ。この学校は、2回目であったが、90歳の宮古島出身のおばあちゃんが、元気そうで嬉しかった。あと、在日の教師が赴任され、朝鮮語の課外授業が今年から出来たと聞いた。

 授業の中で、一つ印象的だったので、忘れないうちにメモしておく。在日のハルモニが、「周り」という単語を使って短文を作る問題で、

 私の周りに気づかないものがたくさんあります。

 うーん、深い…。


 
 明日は、二日目〜。





※写真:画像悪いけど、一緒にラジオ体操しました。

カテゴリー

「はじめに」を書いた後は、まともな投稿をする予定だったのだけど、最初に作成した「カテゴリー」に沿って記事書くのって、けっこう難しい…。というわけで、いきなり「雑感」(苦笑)

この「カテゴリー」については、あらゆる関係での立ち位置を意識しながら、記事を書きたかった所以です。

だけど、多くの場合、複数の「カテゴリー」を跨いだ話になるだろうし、そういう視点で書こうとしているのだから、ちょっとまずいかな?

使い方がよく分かっていないけど、複数選択可能ならこれでいいのか…。

でも、見えていないこともたくさんあるから、この「カテゴリー」は日に日に増えていくでしょう。

どうぞ、厳しいご指摘をお待ちしております。

はじめに

どうも、はじめましてkiimikiです。


このたび、ブログ、はじめました。

個人で公開型のブログを開設するのは、初めてです。

根っからの面倒くさがり屋さんということ、

書いたことが顔の知らない不特定多数に読まれるということ、

もし炎上しても責任持てるかということ、

だからmixiで十分って思ってたこと、

ごちゃごちゃ考えていました。

でも、知人たちがけっこうブログやっているので、影響受けてやってみようと。


ただ、何かを発信するというよりか、自分を見つめ直す、という意味が強いかも。

かなり、暗いブログになる可能性高い…。


だけど、「個人的なことは政治的なこと」を信じて、結果的に何らかの意義が見出せたならなと思います。



私が、運動の中で、常に問うてきた、自分が何者か?どこに立っているのか?という問い。

最初は、ほんとに単純に「日本人であること」でした。

在日朝鮮人運動に強い影響を受けてきた私は、今でもその立場性を自覚的に負いつつ、しかし限界も感じつつ…。

いったんその立場性を固定化し議論しなければならない場面はめちゃくちゃ多いし、そういう現実があるけども、一方で取りこぼしてきたことも多いと思うのです。

その狭間で悩んだり、どちらか一つの選択を迫られたり…。

自分自身がそうであったように、他者に対しても同じように振舞ってきた。


あらゆる関係性の中で、自己と他者が入れ替わったりする。

ときには、自分自身が切り刻まれるような感覚にさえ陥る。

そんな日常を、丁寧に刻みつつ、自分という存在と、社会を繋げていけたらと思います。



更新は遅いかもしれませんが、末永くお付き合い下さい。