「扉をたたく人」

 年末・年始に、久しぶりにたくさん映画を観たので、その一つ「扉をたたく人」の紹介をする。

扉をたたく人 [DVD]

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 詳細は、「扉をたたく人」公式HPを。


※あらすじ(ネタバレ注意!)

 妻を亡くして以来、全てに心閉ざしてしまった大学教授・ウォルター。
 ある日、同僚の代理で学会発表をするために、ニューヨークにある別宅を訪れた。すると、そこには見知らぬ移民のカップルが、住んでいた。シリア出身のタレクと、その恋人のセネガル出身のゼイナブは、詐欺にひっかかっていたことに気づき、警察沙汰にはしないでほしいと懇願し、部屋から出ていく。しかし、ウォルターは、行き場のない二人に、しばらく部屋をシェアするよう計らった。
 気さくでオープンなタレクは、ウォルターにジェンベを教える。ジェンベを通して、ウォルターと友情を深めていく。何に対しても情熱を失っていたウォルターが、ジェンベに夢中になり、セントラルパークでの合同演奏?でその高揚感を味わう。
 しかし、その帰り、地下鉄で無賃乗車を疑われ、タレクは警察に拘束される。ウォルターが証言をしても、誤解は晴れず、取り合ってもらえない。
 タレクは、入国管理局の収容所へ移送され、ウォルターは彼を救うために、弁護士を雇い、毎日収容施設に面会に行く。
 そこに、タレクの母を名乗るモーナが現れる。息子を救うために、ニューヨークにしばらく滞在するというので、ウォルターは彼女を別宅に泊まらせることになった。ウォルターは、モーナに淡い恋心を抱く。


 原題「the Visitor」は、心を閉ざしたウォルターが出会った、移民のタレクとゼイナブ、そしてモーナたちのこと。その訪問者たちは、移民に不寛容なアメリカの国境という扉をたたき、ウォルターの心の扉をたいた。邦題の「扉をたたく人」は、見事なネーミングだ。

 この物語は、2001年の9・11以降、移民希望者や不法滞在者に対し、頑なに扉を閉ざし厳しく措置を取るようになった、アメリカの移民政策の現状を映しだし、アンチテーゼを唱えている。また、ウォルターは、閉鎖的なアメリカ社会の象徴であり、彼の心の変化は、そうした社会の不協和音を訴え、そして希望を託しているのではないか。最終的に、タレクは移送されてしまい、ウォルターが、地下鉄で奏でるジェンベの怒りのリズムは、観る者に希望と感動を与える。

 しかし、ウォルターは、”扉を開く人”としてだけ捉えていいのか…という疑問が残る。常に”扉を開く人”でしかないのだとしたら、それは真に友情と言えるだろうか?対等な関係だとは言えないのではないだろうか?

 タレクは、人懐っこくてオープンな性格だ。そんなタレクに、恋人ゼイナブは、「息が詰まるのよ」と呆れる姿が描かれる。映画の冒頭で、彼女がお風呂に入っているときに、遭遇してしまったことも一因であるが、彼女は最後までウォルターに対し真正面から笑顔を見せない。
 タレクが拘束されたとき、ゼイナブは、ひどく動揺する。彼女も、アメリカに来たときに、収容施設に入っていたことを告白する。数ヶ月後、特別な措置で、女数人だけが出所でき、現在に至るという。タレクの解放が、非常に困難なことを突きつけるが、それは女に対して甘くて寛容なことを意味しない。移民を合理的に管理・監視することの結果だ。彼女が、”外”にいることの意味を、どう捉えるのか…そこまでの関心までは及んでいない。
 また、彼女は、肌が黒い。これは、タレクの母モーナが、彼女に会いに行ったときに、改めて強調される。遠目から、モーナは、「あれがそうなの?黒いわ。黒すぎるわ。」と呟く。タレクとの違いが、ジェンダーであり、人種であることが意識される。あるいは、ウォルターが向き合おうとしている人たちの間のさらなる差異でもある。しかし、物語は、この事実については、特に問題にしない。これは深読みかもしれないが、タレクが、どれだけオープンな人柄かを表現したかったのか…。

 一方、ゼイナブ以外の移民女性との関係では、モーナであるが、こちらはロマンスが介入する。妻が亡くなって以来の感情であり、友情深めたタレクの母親であるから、思い入れも強くなる。恋愛感情は、まるで二人の関係が対等であるかのように見えてしまうから、不思議である。移民女性とは、恋愛関係でないと近づけないし、力関係を曖昧にできないということだろうか。

 つまり、最初の問いに戻ると、なぜタレクをはじめとした移民が、”扉を開けてもらう人”としてだけ捉えられてしまうのかということ。ゼイナブの存在は、そのような欲望に対して拒否している。どれだけウォルターが、親切心をもたらしたとしても、彼女は感謝しない。タレクとは、違う。
 タレクも、一度は、ウォルターを突き放す。自分がどうやら移送されそうであることを察知し、気が気ではない中、ウォルターに「外に居る者には分からないだろ!」と八つ当たりする。これには、ウォルターも言葉を失う。そこまで言われなければ、二人の間の”断絶”に気づくことができないのだ。

 観客の多くが、ウォルターの良心に感動し、タレクのオープンさとモーナの恋心に癒されるだろう。しかし、ウォルターも観客も、それに甘んじてはならない。ウォルターは、「あれだけ善良な人間を!」と、最後に移送されたときに激怒する。その怒りは、やはり友情から生まれたものである。人間は、具体的な関係がないと、なかなか想像できないことは踏まえても、「善良」じゃない人間ならばどんな扱いをされてもよいと言うことにはならないし、そのようなシステムを支えているのはウォルター自身であるということを理解すべきだ。その「怒り」が、どこに向かわなければならないのか、観客はしっかりキャッチしなければならないだろう。


 この映画のキャッチや評判を読んで、(男同士の)友情や異文化交流云々とか、ゼイナブが無視されてたりとか、ちょっと気になったので、相当雑多な文章になってしまったがまとめてみた。
 このような思考の背景には、私が在日朝鮮人運動の中で、考えてきたことでもあり、日本社会に重ねてみる必要があると思う。