性的欲望の向う先

前回は、「腐女子」デビューということで、同人誌即売会体験記を書いた。そこでは、BL・やおい市場の巨大さを目の当たりにした。私も最近になってやっと作品に触れるようになったが、そこまでの情熱は注ごうとは思えない。圧倒的なBL・やおい市場下において、漫画好きのはずの私が、なぜこんなにもはまらないのだろう…という疑問がますます強くなってきた。

昔は、BL・やおい作品は、セクシュアルな描写が含むので、堂々と読むものではないという認識を持っていた。いつか母親と本屋に行って、同人誌コーナーに母親が興味ありげに近づいていくと、「ダメ!」と止めた記憶がある。しかし、これは、あらゆる種類の二次創作作品とごっちゃにしていたような気もする(幼児虐待とか)。だから、かなりBL・やおいを歪曲して認識していた可能性があるし、内容を正確に理解していたわけではないだろう。BL・やおいは、私にとって、驚くほど遠い存在だったのである。

ちゃんと出会い直したのは、ほんの2年ほど前だ。小松原織香さんの「「レイプされたい」という性的ファンタジーについて」*1という記事がきっかけだった。タイトルだけでも、興味をひきつけられるものだったが、私としては、「え?みんな読んでたの?」という衝撃が先行した。身近にいる女性たちの中にも、愛読者が意外にたくさんいることも分かった。

小松原は、そういった作品を愛好してきた自分を、「思春期の気の迷い」としながら、だからこそなぜ愛好したのかを分析している。成長すると男性と交際し、次第にBL・やおいに興味を失っていく、ヘテロセクシュアルであるセクシュアルマジョリティにとっての「ヤオイ」について明らかにしようとした。

BL・やおい作品において、<攻>が<受>をレイプするという典型的なストーリーを、女性たちは需要してきた。小松原は、そうした現象に対して、以下のように仮説を立てる。

女性の抑圧された欲望がレイプという形で表現されているのではなく、レイプ・ファンタジーこそを女性は欲望しているのではないか。

実際のレイプでは、被害者は加害者に主体性を奪われ、<私>は殺されてしまうだろう。しかし、レイプ・ファンタジーでは、<攻>が、<受>の<本当の私>を引きずり出してくれるという。このようなレイプは、ファンタジーであって、実際には自分の身に起きないという安心感の中で、レイプ・ファンタジーを楽しむことができるのだと。また一方で、女性として「愛される」という技術を備えていることへの戸惑いを、「女」という部分を消すことで、対抗しようする。だから、BL・やおいに描かれる<受>は、女性的な男性つまり「非女」的なのである。こうして、

レイプ・ファンタジーによって、「この私」の「女」性を否定した向こう側に、<本当の私>を見出そうとした。

私は、BL・やおいという方向性に至らなかっただけで、以上のような分析にある、自分の「女」の部分の否定や<本当の私>を求めていた思春期に共感するところがあった。

そこで、BL・やおい作品に興味を持ったというより、それらに興味を持つ女性たちが気になるので、薦められたものは読むようにした。その中でも、よしながふみは、私のツボに上手くはまってくれた。『きのう、何食べた?』*2は、BLって感じが全然しないし、ゲイのリアリティに迫っていて、本当に面白い。ついつい街中で読んでいて噴き出してしまったこともある。

全然BLではないが、同じよしながふみの『フラワーオブライフ*3も傑作だ。前回の記事にも書いたのだが、1巻でオタクの真島というキャラが、「男らしい」男性同士のBL漫画を描いてきた同級生に説教するシーンで、以下のようなセリフを言っている。

ボーイズラブ好きの女どもは男同士の関係の潜在的な対等性に無意識に萌えてるんだ!受はあくまでももともとは受も攻も選べる男でありながらあえて受を選択しているのであってそもそも体の構造的に受動的な女とは根本的に違う!/読者は基本的に受に感情移入するものなんだ!

思わず「なるほど!そういう見方もあるのか!」と納得した。実際、よしながは、後に出した対談集『あのひととここだけのおしゃべり』*4の中で、女性たちは、「男同士の“相棒”関係への憧れ」があるのではとも言っている。

しかし、女性が<受>に感情移入するという点に関して、よしながは、対談集の中で、自分は<攻>に感情移入していると述べている。

BLの楽しみの一つって、少女マンガでは味わえない、男の人に対して自分がタチになれる楽しさ。…編集者さんたちは、女の子は<受>に感情移入しているとおっしゃるんですけれど…一瞬私間違ってたって反省してたんですが、でもやっぱりそうとも限らないって思えて。(p.78-79)

自由に<受>/<攻>に感情移入できるBL・やおいのさまざまな楽しみ方がある。女性たちの性的欲望が、少しでも解放的になれる世界なのではないだろうか。さらに、よしながは、以下のように考えている。

男の人が「どうせもてない女の慰めなんでしょ」っていいますよね。でも私、それも間違っていないと思う。…BLが、今の男女のあり方に無意識的でも居心地の悪さを感じている人が読むものであるっていうことだと思う。(p.82)

だから、無意識にでもフェミニズムに繋がっている、関係なくない、と。

ただし、男性同士の恋愛が、女性たちに消費されるようになると、ゲイ男性からの批判も出てきたようだ。上述したような女性たちの置かれた状況を前提とした、女性たちの性的ファンタジーなのだと主張しても、実際にホモフォビア的な作品もある中では厳しい。女性たちは、リアルなゲイは求めていないようだ。しかし、羅川真理茂の『ニューヨーク・ニューヨーク*5のような作品もあるので、性的マイノリティに自覚的な作家が増えてほしいなと思う。

さて、冒頭の問いに戻って、では私の欲望は一体どこに向かっているのかということ。これだけBL・やおいの楽しみ方を知ったところで、「へー」と思うだけで、自分自身の性的欲望にしっくりと当てはまるものではないようだ。漫画を描かれているあるレズビアンの方に、私が「BLに全然萌えないんですよ〜」と言うと、「わかるわかる。私たちの時代には、BLくらいしか読むものがなかったからね」とおっしゃっていたことが、とても印象的だった。作家が意図しないところで、実はクィアとしっかりと繋がっていたのだと思った。今、私がBL・やおいを読む楽しみも、そこにあるような気がする。

私が「オカズ」にしていたものは、やはり男性向けのエロ漫画だった。TLやレディコミも読むけれど、何か物足りない。恥ずかしくて絶対にそんなこと言えなかったが。もちろん、すべてを受け入れていたわけではない。どんな関係性でも、どんなシチュエーションでも、男性の欲望が意識されたものになっているので、本当に疲れる。見たくないところは、飛ばす。感情移入は、自分でも混乱するくらい、どっちにも。その中で登場する女性同士の絡みにも共感はできず…。こんな大変な思いして、エロ漫画を読まなくてはならないのだろうか…みんなどうしているんだろう…と思っていたが、BL・やおいを読んでたのね、って納得。今の今まで、そんな話をガールズトークでさえしてこなかったことにも、衝撃…。

今の私は、すっかりGL・百合にはまっている。ジャンルが確立しているわけではないので、なかなか良い作品に出会うのは難しいが。GL・百合にもっと早く出会っていれば良かったと思う、今日この頃。出会えていない女性も多いんじゃないか。女性の性的欲望の自由を掲げるのなら、やっぱりGL・百合も欠かせないでしょー。

戦前は、「エス」小説と呼ばれるものが、「少女雑誌」で流行していたそうだ。「エス」とはシスターの略語のようだが、女学校における女性同士の親密な関係を描いた少女小説である。百合との連続性はありそうだが、百合ほど踏み込んだ関係までには発展しない。その時代には、いくら親密になっても、強制的に結婚させられるのだから、そこまで問題視されることがなかったのかもしれないが、戦後、男女共学に変容する過程で、「少女雑誌」の内容も男女交際へと移行していくこととなる。

この異性愛主義が刷り込まれるプロセスは、私がGL・百合作品を必死で探して疲弊しているときの肩身の狭さと何か似ている…。

*1:小松原織香「「レイプされたい」という性的ファンタジーについて」『フリーターズフリー』2号、人文書院、2008年12月。

フリーターズフリー vol.2 (2)

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*2:

きのう何食べた?(1) (モーニング KC)

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*3:

フラワー・オブ・ライフ (1) (ウィングス・コミックス)

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*4:

よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり

よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり

*5:

ニューヨーク・ニューヨーク (1) (白泉社文庫)

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